私の音楽人生 John Lennon 2章-④ 音楽の聴かず嫌いをやめよう!新しい世界が待っている!ジョン・レノン(John Lennon)
音楽の聴かず嫌いをやめようシリーズの第4弾です。
ここでは、恐らく一番大好きな音楽アーティストであるジョン・レノンについて取り上げたいと思います。
ビートルズ時代のジョンは当然かっこいい。
<Wikipediaより転載>
しかしながら、ビートルズ解散後のソロのジョンの音楽性にずーと疑問を持っていました。
いい曲はすごくいいが、全体的に、全然かっこよくない、軟弱な歌が多すぎると思っていた。
ヨーコのことも本当に好きなのかもしれないが、なんだか私の思うジョンじゃない。ヨーコのことを軟弱な感じの曲で歌わないでほしい。なぜなんだ??とずっと思ってました。
でも、1980年のアルバム『ダブルファンタジー』でのジョンのパートの曲は素晴らしいものばかりで、これこそがカッコいい我らのジョン・レノンだと、まだ高校生になりたての私は雄たけびを上げてガッツポーズをしたのでした。(多分。笑
但し、ヨーコのパートが、高校生の私には恥ずかしすぎて、許せなかった。
カセットテープには、やむを得ず、ヨーコのパート(半分もある)をカットしたジョンの
パートだけのものができた。短くてもカッコいい!
でも、忘れもしない1980年12月8日にマーク・チャップマンに殺害された。
多分、親族以外で、亡くなられた事で、ここまで悲しくさせる人は、出てこないと断言できます。
思春期の私は、ジョンレノンの再出発アルバムのダブルファンタジーのジョンのパートの曲のすばらしさにほれぼれしていて、新生ジョン・レノンに大きく期待していたのでしたが、茫然としてしまいました。
<フリー版>
時はずいぶんくだった2020年11月に、沖縄に旅行に行きました。
もちろん、現地では、レンタカーで観光地を移動して、できるだけ人との接触を避けました。
沖縄行きを決めてからジョンレノンの境遇について、いろいろ深く考えるようになったんです。
基本的に、マザーって曲は、昔から嫌いだった。
かっこいいジョンがそんなマザーって歌うのが甘っちょろいようで許せなかった。
但し、ジョンの母との関連性について深く考えていなかった事を深く反省した。
破天荒な母、ふらふらしている父。
結果、両親とほとんど住まずに、ミミおばさん夫婦に育てられた。
そんな母も交通事故で亡くなり、本当に不遇な少年期だったと思う。
自分なりに、沖縄行きのフライトの直前にジョン・レノンの生きざまについてなぜか深く考えたんだ。
結論は、不遇→成功→挫折→再出発後の悲劇。悲しすぎる。。
マザーの歌詞は、アメリカにおいては、「詩の内容が狂気じみている」との理由で放送禁止になったというエピソードも有名。本当にそう思う。
しかし、彼の人生をよくよく知った上で歌詞を読むと涙なしには読めない。
沖縄でのレンタカーでは、雨の中、ソロの1’stアルバムの『ジョンの魂』をなぜかヘビーローテーション。
自分も気がおかしくなった気がした。(雨が降りしきる中で、狂気じみてた、でもなぜかそうしたかったのです。)大雨が降る中、何度も繰り返し聴きながらある島に向かった。島に着くと小降りで少しほっとした。
島観光の帰りの道中に、雨がやみ、雲の合間から太陽光がキラキラと本当にキラキラいままで見たことないくらいの幻想的な世界が登場した。
ジョンレノンと心が通じたような気がした。
(オノヨーコも心の支えなんだろうし、ヨーコを歌っている曲を聴いても本当に仲良しなんだなあと理解できたし、心がなごんできた。)
という事で、嫌いなアルバムや音楽家でも、それらの作成された時の背景を知ることにより、深い悲しみや考え等が、自分の事のように理解できて、好きなる事があるんだと
理解できた。
世界を熱狂させ、名声を得たにも関わらず、40歳にして狂人から殺害される。
悲しいが、私は、いつまでもジョン・レノンの事を思い続けるつもりです。
そうそう、リヴァプールに2度目に行った時に、ジョンレノン殺害を報じる地元紙の
リバプールエコーの紙面を購入して帰りました。
この新聞は、私なら大事にしてくれるという運命的な出会いで待ってくれていたんだと大げさですが、感じてます。
という訳で、今回は、ジョンレノンのソロの時の音楽性が嫌いだったのが、背景を勉強することにより、ソロの時の音楽が大好きになったという事例をお伝えしました。
では、またです!